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2006-06-29
◇『漂流教室』楳図かずお そのTVドラマ化『ロング・ラブレター』

■映画にもなった『漂流教室』は2001年ドラマにもなった。なにかラブ・ロマンスとなって。常盤貴子窪塚洋介山下智久妻夫木聡。マンガの方とぼくはリアルタイムで併走した。1974年最終回は「とある思い出深い」喫茶店で読み、涙がとまらず、立てた「少年サンデー」に隠れてコーヒーをのんだ……。
■楳図かずおのマンガのオリジンはヴェルヌの『十五少年漂流記』で、とにかく感動的なエンディングだった。でもドラマは、漂流する小学校が高校になって、主人公は少年たちではなく熱血教師になってしまった(その教師にせまる女子高生などもいた)。エンディングも違った。ところがこのまったく違うエンディングが印象的だった。

■人類が滅亡してしまったはるか未来に、地震によって学校ごと運ばれてしまった教師や生徒たちは、結局、元の世界に戻ることはできなかった。不毛な未来に播かれた、選ばれた人類の種子となって、彼らはその世界で生きる決意をする。
 その意志と勇気と希望のために最後の儀式が執り行われる。それは、過去の、別れわかれになった人たちに手紙を書くことだった。手紙は、過去に向けたタイムカプセルとなって、時間のひずみに投げ込まれる。もしかすると元の世界の人々に届くかもしれない。それは諦めを希望に変えるための儀式だった。人類を滅亡させ、地球をこんな不毛な星にした人類の愚かさをみんなの手紙は訴える。もしこの手紙が届き、だれかがそれを読めば歴史は一変するかもしれない。

■(マンガでは主人公だった)高松翔は、一枚目は父母に向かって書きおえると、二枚目は、恋人に向かって手紙を書き始める。学校がなくなる直前に、校門の前で、つまらない意地の張り合いで彼女とけんか別れした、それがそのまま永遠の別れとなってしまった。彼女といっしょにいろいろなことをしようと考えていた、それはいつでも実現できると思って延ばしていたのに、不意に引き裂かれると、そのすべてが実現のない夢となり、ありえない未来となって彼に帰ってきた。
 彼は書き始める。書きたいことはたくさんあった。でも書きたいことが無限にあるときこそ人はなにも書けない。書けば書くほど書いてしまったことと書きたいこととの隔たりは広がってしまう。「どうかぼくのことは忘れてください」、そんな馬鹿みたいな一行を書いて彼の筆は止まる。ほんとうは、彼女の元に帰りたいこと、もう一度会いたいこと、なによりも「ぼくを忘れてほしくない」と書きたかった。なぜ忘れてほしくないという気持ちが「どうかぼくのことは忘れてください」といった正反対の言葉になるのか。彼は涙を流す。涙が、手紙の余白を濡らしてゆく。
■ぼくのことを忘れないでほしいといった心情は、ぼくのことを忘れてほしいという表現に変わり、書きたいことが無限に溢れている心が、何も書かれていない便箋の余白となってしまう。それこそが言葉とモチーフ(書く動機)の関係だった。時間はいつでも逆向きに流れる。別れをやり直すために「どうかぼくのことは忘れてください」という本心を綴ったことによって、その言葉をウソだとするもうひとつの本心「ぼくを忘れてほしくない」といった気持ちが生まれる。何一つ綴ることができないことが、本当は書きたいことは無数にあるといった事実をあとで作り出してしまうのである。
 だから言葉は、モチーフを裏切ることによって、モチーフを試し、新しいモチーフをつくり続ける。言葉によって人が人になるのは、こんなふうに表現したいことが表現されてしまったことによって裏切られるとき、ウソになる言葉によって自分を偽装することしかできないときだった。だから高松は惜別を語ることによって彼女との恋愛にしがみつき、失ってしまったとき、初めてどこにもなかったかもしれない彼女への愛に気づく。やっとたどり着き、表現できた言葉によって、別の「遠ざかる真実」とそこで邂逅してしまう、真実を表現しようとするものは、そうして後ろへ後ろへと自分自身を追いかけて生きるほかなかった。
■しかしタイムカプセルは届かなかった。時間のひずみの中で、みんなの手紙は、ケースごと粉々になってしまう。何ひとつ書くことのできなかった、書くことができなかったことによって無限の会話を語りかけようとする高松の手紙は、ついに彼女に届くことはなかった

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