敗北の苦味

◇『サウスバウンド』奥田英朗 角川書店

敗北よりももっと恐ろしいことがある。それは勝利だ。
T.マン『ファウスト博士』

■奥田英朗の『イン・ザ・プール』や『空中ブランコ』の精神科医伊良部にはどこにも矛盾点はない。どこからみても伊良部である。言葉や意味といったコミュニケーション以前のもので彼は患者たちを理解する。出会うことが愛することに直接し、愛することは愛されることだった。ここには信ずべきものも疑うものもなかった。まるで当たるに決まっている占いのように、彼の治療は完結する。なぜわざわざ話したり、意味について考える必要があるだろう。筋道を引く必要がどこにあるだろうか。話す前にすでに判り合えているのに(ただし患者はそのことに最後になるまで気づかない)、そこから遠ざかる必要なんてどこにもない。

■『サウスバウンド 』の主人公の父親は、まるで渾然一体だった空と海の境界に水平線を書き加えるみたいに、その伊良部に言葉を付け足してしまった。小学生である主人公とはプロレスで接し、プロレスで理解しあう。もちろん主人公はそれが意識の上では「理解の方法」だとは気づかない。ところが、相手が学校の先生だったり役人となると、突然言葉による攻勢が始まる。遠くから接近するという普通のコミュニケーションの方法を取る。そこには伊良部が持っていたはずの直接性も詩的絶対性もない。ただの理屈屋の偏屈な、変な親父がいるだけだ。

■理論を語りだすと奥田英朗はだめになってしまう。そのことによって、言葉を信じてはいても論理を信じていない、それが彼を作家たらしめたことがよくわかる。革命理論から原始共産制にたどり着くのではなく、初めから、つまり伊良部というキャラクタがすでに原始共産制というユートピアを、しかも都会のど真ん中で生きる理想的な人間だったのに、『サウスバウンド 』では都会から田舎へ、田舎からさらに古代ユートピアへと資本から、経済から逃れていってしまうだけだった。それこそが革命の敗北じゃないか。資本主義社会の否定は単純に原始共産制社会、しかもそれはエコロジストが思い描くのとほとんど同程度のユートピア的幻想でしかなかった。敗北に過ぎないものを、まるで勝利のように描いてしまうところが、この作品も現実の共産主義思想とまったく同じ誤謬に陥っているように見えてしまう。現実には、どこにも英雄なんてものはいない。ただ物語の上では、レーニンが、毛沢東が、ゲバラが、この『サウスバウンド』の父親と同じように英雄を演じている。

■主人公の父親は端から端までラディカルな英雄だった。都会での生活はまるで貴種流離譚になり、全体が寓話に変わる。子どもたちを振り回し、都会を捨てさせ、友人たちを失わせ、最後には野性の中に置き去りにしながらも、自分を理解させるといった離れ業を易々と成し遂げる。それどころか尊敬さえもかちとってしまう。こんなにすばらしい革命家はいなかった。だからこの作品は、革命家をはなはだしく誤解させてしまうのではないかと思う。みんな平凡な学生だった。そのまま平凡な人生に入っていった者が多かった。どこにも勝利の美酒はなかったが、敗北の苦味も、その後の平凡な人生の幸福の隠し味となった、それだけだった。

00:00 | 日本文学 | comments (1) | trackbacks (1) | page top↑

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by: | 2006/06/26 23:50 | URL [編集] | page top↑

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12月28日に読み始めて、1月9日に読了。ぱんどらさん、読み終わるのに10日以上かかってんじゃないかよー。あ……いえ、28日に少し読んで、しばらく放置したまま他の本を読んでいたもので。ぶ厚いけれども、す
2006/06/24 (Sat) 14:20 | ぱんどら日記