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2009-12-29

部屋の床が抜けるほど本を読んで、柳行李いっぱいに、何でもいいから書いた原稿用紙を詰めて、もう入らなくなったら、お前はもう作家だ、と師に云われたことがある。
生来の人嫌いが作家にはなれないと一人決めした私は、師に背いてしまった。
いかに人を嫌いか、というだけで、柳行李に原稿は詰まるのである。

抵抗や防御が、それが抵抗し防御している対象そのものと化してわたしを占有していることがある。書くことへの拒否を書きつづける、といった典型的なパラドクスもそうだが、卑近な例では、ある知人は風邪薬に風邪とそっくりなアレルギー症状がでるし、つい先日、わたしはのど飴がのどに詰まって咳き込んだ。

何を防御しているのか、防御が忘れさせない。嫌悪は嫌悪による執着である。そうしてそんな場合も抜け道は前にしかない。嫌悪自体を嫌悪しなければならないだろう。執着自体に執着するように。女に執着するのではなく女への欲望を欲望し、そうして嫌悪や執着の対象を失うしか選択がない。教訓は単純だ。過程を目的化せよ。そして目的を見失うのだ。前向きに。

そのかわり目にするものすべてに私を見つけては暮れた季節たち。子どもたちの垢にまみれたプールのぬるい水、踏みつけにされた枯葉の湿った音、識者によってかんたんに解説される化石、ぶら下がったまま腐敗する首の如き無花果、排気ガスに汚された残雪のひとかたまり。

ここに置かれた「私」とは「不在なるものによる充溢」と呼ばれる事態を提出する典型的なシニフィアンである。「どんなもののなかにも発見される私」という私の偏在があかしつづけるのは、ただの空無ではない。私の「埋められつづける空無」だった。私は絶えず充溢しながら偏在する、ただし充たされない欲望によって充たされ、どこにもいないという失踪によって偏在する。

未知の化石は、未知であることがそれに魅了される理由のすべてだったのに「識者によってかんたんに解説される化石」にすぎなかった。私たちに夢の歴史は許されない。

修学旅行で琵琶湖を見たけどただの劣化した海としか思えなかったといった意味の言葉を照れながら語るひとと食事しながら、近づいたら見えないほど巨大なものより地図帳で見下ろす小さな琵琶湖の大きさについて考えていた。見ることが見えないことになる「モノ」の正体こそファンタジーである。

幻滅の構造は、ファンタジーの現実化といったプロセスがもたらすと言いたいのではない。「見えない」という現象は、現実に向き合っているのにあくまでそこにファンタジーを見ようとする強硬な態度である。幻滅をけっして選ぼうとしないそのひとは自分自身を抱きしめていて、どうしてもやさしさと見えてしまうその愛はとても危険な黒豹だ。


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