その「十一月の坂をくだった 」という詩を読み、この詩の詠み人が「二度と帰れない砂漠に向かって涙を流した」ように、私もこの詩に向かって涙を流す。私は衰弱している。弱っている心により強く訴える作品を作るのは、優れた玄人にのみ可能なのだ。井上氏の詩はより官能的に、より通俗的に変化している。
最初の詩集を出す前から、彼はわたしの詩の最良の読者だった。それは30年も前の話のように聞こえるが、30年も前の話である。わたしの歩みはわたしの詩のあゆみだった。つまり進んでいないと語ることも、むしろ後退したと語ることもできたし、そこから数歩だけ進んだと語ることもできた。それは、詩としてのわたしが、進まなかったのだし、後退したのだし、ほんの数歩だけ進んだからだった。
一歩一歩前進して完成に近づくといった姿は「前進する体裁」を表現するポーズでしかない。誰かが(大文字の他者にきまっているが)そんなポーズを要求しているとしたらそういうポーズをとればいいという話題だが、すでに停滞もポーズでしかない。「ひきこもり」を非難する社会の健全さは暴力だし、「ひきこもり」による社会の否定は<受け身の暴力>にすぎない。
作品がわたしたちを選んでいる。それが偶然、自分の作品であったとしても。読むことで生成すると信じられている作品は、読まれる以前にそう読まれることを知っていて、わたしが読むはずであろうものは「つねに/すでに」書き込まれ、わたしを積極的に選びつづける。そして作品に、あらかじめ書き込まれている「わたしだけの傷痕」によって、作品は、まるでわたしの方がこの作品を選んだかのようにわたしを選択するのである。
最近「僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない」というブログを知った。彼女が危険な書き手なのは、資質によって、書くものにあからさまな「傷痕」を投影するためだった。いにしえの言い方では「行間で欲望を解放している」のだ。だから高い知性とうらはらに彼女によって図らずも書きこまれたものは、なんなく読者の欲望を惹き寄せてしまう。欲望が呼び起こされるときは、それを誘っているものがあらかじめそこに書き込まれているからだし、当然その無意識の物語を抑圧しようとして書けば書くほどその傷痕は口を開く。彼女には言葉しかなかったのに、その言葉はかならず彼女以上の言葉を語りつづけた。
でもここにいるのは自分自身の表現に耐えることのできない表現者といったものではない。ただ自分の表現が招きよせてしまう他者の表現に耐えられなかったのだ。写真が救いになった。それは横滑り的な移動であり、媒体の交替にすぎないようにみえる。でも本当に救いであるなら、やはり写真によって選ばれるときだった。つまり言葉で語ったのと同じように、写真によっても「わたし以上のわたし」が表現されるときだった。
ひとの本質は<わたし以上のわたし>だし、それが耐えがたい場合は拒否するだけでいい。なぜならその拒否こそ別の<わたし以上のわたし>を選択することにほかならないからだ。
青藍山研鑽通信による詩行の引用「二度と帰れない砂漠に向かって涙を流した」の「砂漠」は詩では「沙漠」だった。この誤植によって、この引用はコピーされたものではなく手で打たれたものだとわかる(彼はただコピー&ペーストを知らないだけかもしれないが)。で、手打ちへの敬意として、わたしの詩の方を「沙漠」から「砂漠」に変更しておく。
基本は、わたしと同じ大きさのわたしは存在しない、というそれだけのことなのです。「等身大」がいかに私以上の私なのか、みんな知ってるくせに。
次の問題は、「わたし以上のわたし」は対自的というか、他者によって作られるということです。理想自我は他者の視線です。わたし自身も他者のひとりとすれば、ですけど。
いい他者と出会うのは、わたしと出会う最短距離なのです。
でもなぜ写真にみんな引き寄せられるのだろう。それもある種の最短距離だからかもしれない。
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気づきを、ありがとうございます。恐れ多いなあと思いながら噛み締めています。「わたし以上のわたし」に振り回されなくなる日は来ないのかもしれません。それでも、わたしはそれに追いつきたいと、足掻こうと思うのです。