2009-10-19

不幸な結末を逃れようとして、その不幸な結末を招いた当の原因に助けを求める、という典型的な不幸の構図がある。たとえば自然破壊を招いたテクノロジーに、自然破壊を避ける手段を求めるといった構図だ。ここで理解されていないのは、さらなる発展を遂げたテクノロジーで自然破壊が食い止められたとき、もっと絶望的な不幸な結末が、そのテクノロジーによって切り開かれている、という点である。

科学が発達できるのは、ただ「科学は思考を持たない」という特質によっている。その特質は想像を絶する不幸な結末を作り出す。この辺はハリウッドの人類絶滅を描くすべての映像がすでに予知している分野である。なぜ人類絶滅はそれほど興行収入を上げられるのだろうか。ひとびとの無意識が人類の滅亡を望んでいるからだとジジェクは語ったが、だとすればハリウッド映画は思考を持つことによってひとびとの無意識を追走している。科学は、思考を持たぬことによってひとびとの無意識を絶滅に向かって先導しているのだ。

人類の絶滅は科学の真理である、という言い方でそれを表現する。これが、全体主義は民主主義の真理である、というハイデガーの中心的思考を表す命題の応用だ。争いをなくすために考え出された多数決のために、民主主義は永遠に人数集めの争いを続けるほかない。そこでもし争いが皆無の社会というユートピアを描くとどうなるだろうか。すべてが全員一致で採決される全体主義に行き着いてしまう。争いをなくすために争いの肥大化、恒常化が必要だったように、テクノロジーにはその欠陥を発見し、それを埋める新たなテクノロジーが不幸を拡大しながら要請されつづける。

したがって真理とは、完全な誤謬へと間違いなく向かう戦略である、と言いたくなる。究極では、語り尽くされてしまう世界といったものを文学は思い描く。「唯一の本」である。すべての作品は、その「唯一の本」という一点に向かう分散形態にすぎない。その「唯一の本」は、文学の真理であり、私たちが求めざるをえない<完全な誤謬>という神である。


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