もともとはYさんの退院祝いみたいなものから増幅現象を起こし新たな動機も加わったものと推測している。きちっとグループ分けでもして対応していればいいのだが、そうなっていたのかどうかも判らない。こういう集まりは精々二、三人がいいのではないでしょうか。二十代、三十代のひとたちとの距離のとりかたは気が疲れるものですよ。とにかく疲れ切った井上さんに、さらに「お疲れ様でした」と言いたい、わたしは服部さんにもお会いしたかったです。
その通りでした。そのYさん(iruguさん)だけが群をぬいて元気だったのですが、もちろんそんな元気を、もっとも気遣うべきひとに強要してしまったのがぼくの最初の失敗でした。
根本氏の小説のような重苦しいものを読んでも誰も小説家になりたいなんて思わないよとiruguさんが語るのは当然で、いい女だと思ったら親しくなる前にセックスをしろ、という「酔った時の持論」通りでよくわかります。
しかし快楽は、先に好きになってしまって彼女に触れることさえできない、そこにこそあるわけで、そういう苦しさから根本氏の小説は書かれているわけです。癒されない傷痕を剥き出しにすることが癒しになってはならない、そういう苦しさです。それに誰も小説家にならなくていいのです。小説家は小説家を排斥しなければならないでしょう。
アマヤドリのクロエさんの踊りについての話題となりました。iruguさんの小学2年生の娘さんが彼女の踊りを見て、ずっと空中で踊っていた、と語ったそうですが、そういう作品の見方がほしいと思いました。
実は会合の前にiruguさんの奥さんとその娘さんにお会いしました。その娘さんがぼくの詩を暗唱するのを聞いて、世界が凍りつきました。それは川野さんのひたすら恐縮してかたくなっている姿をみたときもそうですが、そういうものにぼくが慣れることはないでしょう。彼に楽しさを与えられなかったことに後悔が残りました。
もっとも話をしたかった中猫さんともっとも話す時間がありませんでした。なぜ彼を引き止めなかったのかとこころが残りました。で、家では笑った表情を見たことがないiruguさんが外でひとに会うとニコニコしていると奥さんが言っていましたし、そんなiruguさんに娘さんもべたべたでしたが、家でもときにはニコニコしてください。
何年か前は教科書のいろいろな話について、これがどういう話なのか説明していました。「そういう話だったのかあ」という受け取り方もありましたが、わからない場合もありました。
言葉はどんな深さでも出会えるのですが「音読」はそういう読みではありませんね。音なのですね。音になった言葉として届くものですね。
iruguさんのように鮎川信夫や吉本隆明の詩を音読させたことはありませんが、それらを読む小学一年生をぼくは初めて見ました。彼女の暗唱は、貴重な体験となりました。
