2009-09-21

楽しさが私とともにいる誰かの楽しさであり、そしてその人の楽しさが私の楽しさであること、これが対幻想の根拠のように思える。私の妻は、楽しかったかどうかは、そのあとの自分の体調に訊けばいいという考えを持っていた。それ以外のなにか(たとえば言葉による反省)が、自分の過去に届くことを信じなかったというより、たぶん届かなかったのである。

言葉(反省)によって作り出す嘘が私たちの過去を再生産するが、それを真実とみる歴史しか描けないなら、それは救済のためである。では体調(反省)が嘘を吐かないとしてそこに描かれるかもしれない反-歴史といったものは、なにを意味するだろうか。たぶん満足への永遠の希求、進まない歴史だった。

作家はどこかで無意識で書いている。である以上、その部分では彼は自分が何を書いたのか知ることはできない。自分で気づかずに書いてしまったものも確実に読者に届く。そして読者も、自分に何が届いたのか知ることができない。読者が自分が気づかずに受け取っているものに名を与えようとする試みを批評と呼ぶ。

これは作者が意識して書いて、そのまま読者に届く表層的で作為的な部分、ストーリーといったものがどうでもいいという極論を語っているわけではないが、それらはただ届く。意図的な表現は、届くという通路がそこにあるという確認のためのヘルシー・メッセージにすぎない。その内容はたいてい空虚と同じものでできている。

ではいかにして自分が気づかずに受け取っているものに気づくかというと、たぶん体調とか気分といったものに問いかける必要があるというわけだ。反省すべき対象は、自分の変化だけなのだが、それを問う言語を持つのはけっこう難しい。結局反省の嘘か、ふたたび無意識の闇にとらえられてしまうだろう。反省もまた言語の発見の上にしかないように思える。

読者の受動的な無意識の闇、<進まない歴史>が作品の豊穣を支えている。それを意識化することによって作品や作者がこわれてゆくプロセス、それが文学史だ。

以上は、qfwfq氏@irugu19氏との9月19日の出会いによって得られた「反省」としてここに記す。20日早朝、伸びをした途端に両足が同時に攣った。体調に訊けば、何かが決定的に良くなかったとその痛みは告げていた。


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