FC2ブログ
--------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--:-- スポンサー広告 comment (-) trackback (-) top↑
2009-08-06

「前向き」の「前」は未来だが「半年前」の「前」は過去である。いったい「前」とは未来なのか過去なのか。もちろん両方だ。「後ろ」もまた過去でも未来でもありうる。アジアでは前後から時が打ち寄せ、退いていった。そこでは、未来を見つめながら後ろ向きに生きることもできた。

過去が未来に出現し未来は過去に終わっている場所に、いったいどういう歴史観が可能だろうか。在ったことは無かったことになり、無いかもしれないことがすでに在ったことになっている。

そして過去から直線的に未来へと流れる西洋の歴史観(唯物史観)が私たちの「前後感」を攪乱したことよりも、時間を空間に置き換える私たちの前後の感覚が西洋の時間に与えた影響のほうが大きいように感じられる。そこに登場するのが<前未来>と呼ばれるものだった。

<前未来>とは、すでに起こってしまった未来というより、未来における追憶、これから起こるであろう過去である。

二人の愛の行為は、いわば前未来、追憶されたそれとして描かれるだけである。直截な性的享楽は即座に、<他者>の享楽へ至高化=止揚され、両者は魔法のように重なり合ってしまう。「真の」享楽は、行為そのものにも、来るべき快楽への期待がもたらす戦慄にもなく、その憂鬱な追想にある。
スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』

憂鬱は快楽の結果として起こる、過ぎ去った快楽のことだと思われがちだが、実は快楽の原因である。憂鬱なひとを慰めるなどもってのほか。涸渇した楽観主義者である私たちは、逆にメランコリックによって潤されている。

いってらっしゃい可愛いひと。プールへ出かける子どものバッグには無意識の希望。ひらひら手をふる後ろ姿の日なた色した生え際と細い首筋、しっかりと地を踏みしめるアキレス腱。未来は果たせぬ邂逅と同じ過去。

おかえりなさい可愛いひと。水の匂いを運んでくる子ども。遠い昔どこからか漂っていた夕餉の醤油のかおり、この私の鍋の中から。ふっくらと淡い挫折をふくんで煮えた高野豆腐。過去は既視感に満ちた遠い未来。

未来は果たせぬ邂逅と同じ過去。過去は既視感に満ちた遠い未来。ここに<前未来>がある。私の『楕円軌道』という詩は、彼女のこの詩の過去に呼応し、この詩の未来の追憶の中でうまれた。「五年前は未来過ぎる/いつも希望は過去過ぎる/過去はいつも過去過ぎる」。書かれた日付が新しい彼女の詩が原因となって、私の詩の「前」にある。


Secret

TrackBackURL
→http://freezing.blog62.fc2.com/tb.php/637-67b39e4a
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。