資本主義のイデオロギー的勝利のもっとも確かな徴は、過去二〇年から三〇年かけて起こった資本主義という言葉そのものの実質的な消失である。スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東』
資本主義という言葉が消えたということは「反資本主義」という言葉が消えたということであり、それがどういう裏切りに会ったかという歴史を取りだすことが、ただ「反資本主義」という言葉のあった場所を空白として照らしだす光である。失われたものを埋める別のものだけが、失われたものを裏切っている。
そしてその裏切りによって、失われたものが回帰する。自分自身が元の場所に回帰するのではない。他者の中に自分自身が回帰するというだけでは足りない。それは「他者の中に場を持たぬものとしてその他者に回帰する」限りにおいて、みずからに回帰する。
反グローバル主義はどうだろうか。ただの反米である。そこに結集するのは、共産主義的資本主義国家、中国などであり、ある資本主義国家を別の資本主義国家が批判するという図がそこに見える。そこでは、「反資本主義」は継承されていないどころか、裏切られてさえいない。
たしかにかつて中国は、共産主義の旗を振っていたし、その旗の下で反資本主義の旗を振っていた。現在も同じ旗を振っているという見かけは、しかし裏切りではないのか? けっして過去を裏切るまいとするトラウマが招き寄せる裏切りではないだろうか? これは転向せざるものが転向者にすぎないという吉本隆明の『転向論』を思い出させるテーマである。転向せざるものが裏切り者となるサルトル的テーマを思い出してもいい。変わらぬ愛こそが愛を裏切り、変わる愛によって裏切られる愛だけが、このときも誰かを愛している。
反民主主義、これが反資本主義を裏切ることによって立つ、反資本主義の真の後継者だというのが、毛沢東への読みである。『実践論・矛盾論』にそんな読みが可能な理由は、「アジア的」というものに対する距離の違いにあるように見える。読み変えられた『実践論・矛盾論』に感動できないとしても、その距離の違いに私は慄然とする。「アジア的なるもの」から、それほど隔たった場所に私が立つことはないだろう。
そして、消え去ってしまうことによる勝利というものがあるのだ。無味となり無臭となり無色となって誰の感覚にも認識にも届かないものとなることによって、みずから自身となる何かがある。まるで過去の恋人のように、痕跡さえ残らなかったときにこそ、彼(女)の消失は勝利の徴である。ただし勝利の徴がそこにあるだけで、勝利者はどこにもいない。
