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2009-06-09
心の底から「かわいい」とおもって「かわいい」とことばにするときも、
お世辞や気遣いで「かわいい」とことばにするときもあるのだとしたら、
そのひとのことばが、信じられなくなりませんか。

これは厳しい。みんなに厳しい訴えだという意味ではなく、これは発言者自身に厳しい訴えである。訴求者がその訴求によって自らが追い込まれてゆく、といったストーリーがふと脳裏をよぎる。たぶん世の中、大人の世界では、信とか不信とかいったレベルで人付き合いがなされているわけではなく、だからといって大人の世界に友情や愛情がないかというと、ちゃんとある。その愛情のなかで、脈々と不信が息づいているというわけである。

そもそもほんとうに信は真に、真は信に結びつくのだろうか。偽だけが信によって真になる、という公式があるだけではないだろうか。そういう意味で、偽は真の源泉だと言ってみるのはどうだろう。信は愛を静止させる。不信が愛を強化するのではないか。

私が生身であることに惹かれるのはそういうわけなんだろう。
自分がたくさんのごまかしをしてきたから、もうそういうものは要らない、と思う。
かっこ悪くても、痛々しくても、まっすぐぶつかることができるものしかいらない。

私の身体を私に奪回すること、それがこのブログのたったひとつと言ってもいい縦糸である。そのために感覚によって開かれた世界の「真」がつねに呼び求められている。私の読みでは、ブログ「hanbi days」と「アマヤドリ」はそっくりである。双子でなければ姉妹に違いない。

感覚の直接性によって描かれる世界は詩的ならざるをえない。その感覚の直接性が「写真」を引き寄せている。そして詩的な世界観が美しくないはずがない。

もし世界の矛盾を、漱石のように「とかくこの世は住みにくい」といった諦観によって耐えるしかないとしたら、つまり妥協点を知っていて妥協しないという耐え方しかないとしたら、それは小説的である。もし社会科学的論理によって世界を抽象化してしまえば、それは批評的である。言い方をかえれば、苦痛なき妥協である一般の世界、妥協の苦痛である小説的世界観に対し、詩的世界観は妥協なき苦痛である。

このふたつのブログが私にとって貴重なのは、つねに真北を指そうとして揺れる羅針盤だからである。たぶん真のユートピアは、社会科学的言説の先にはなくて、この羅針盤が指そうとする方角にあるという感じを私がもっているためだ。真はどこにある。信にあり身体にある、そういうユートピアが描かれ、求められている。

そしてこのふたつのブログにある最大の(悲しむべき)共通点は、日本的ではない、という点に尽きる。ふたりは、日本と呼ばれるものに帰属していない。欧米に暮す方が自由であるような個性をこの姉妹には感じる。そしてその帰属喪失感が、ふたりを通して、美しい詩的日本語を紡ぎだしている。


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