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2009-05-29

だれかの「雨だわ」という言葉を目にしたり耳にするだけで、もう何週間も雨を見ていない。でもこれは、もうずっと雨に濡れるだけで雨を見ていないと書いてもいい。「また雨なの?」。ちょうどフェリーニの『女の都』のタイトルバックで「またマルチェロなの?」という声が入るが、それと同じ、飽き飽きとした調子で「また雨なの?」と呟いてくれてもいい。どちらにせよ、雨を見ようと見まいと、私はそれによって何も語れない。

そうして、ただ語らぬために語ることによって沈黙に加担せよ、と自分が自分に語りかける夜があり、その沈黙さえ虚偽を語る夜がある。虚偽を語りはじめる夜を愛さなければならない。沈黙のために沈黙することではない。沈黙のために語ることでもない。沈黙のために語るのに、語ることによって語ることそのものを裏切る夜、詩はそこに始まる。

大切なひとに
大小さまざま色とりどり
てんこ盛りの嘘をついて
大切なひとを
大切にするわたしやあなたの
くちびる
で匂う花はけなげ
生きている間は枯れない
大切な間は枯れない
だから
嘘は愛なのです
森永かず子「けなげな春」冒頭『水盤』5

シニシズムや暗いユーモアを読んでしまうと、こんな言い方が許されるだろうか、それは森永かず子の魅力ではあっても詩の魅力ではない。作者の魅力といったものはやすやすと詩に乗り、詩の言葉によって表出されてしまう。作者に会ってみたいと思う思いが、この作者の次の作品を読んでみたいという思いを追い越してしまう。なぜそこに分裂が生じるのか。作品を読もうとすると作者がそれを邪魔する。作品が作者に帰属しているためだ。

まるでアマチュアみたいに。「言いたいことがあり、言いたいことを言うために詩を借りている」、それがアマチュアの定義だとするなら、森永かず子はアマチュアではない。けっして詩を隷属させるわけでもないし詩に隷属するわけでもない。それなのに詩は、まるで自己嫌悪のように作者に帰属させられている。まるで自己嫌悪のように作者は詩を手放さない。

同じ詩誌『水盤』の同人である山本まことの詩と比較するとその辺がよく見える。彼は詩を読ませる。それはナルシシズムによって詩を手放すからである。

冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
山本まこと「冬の日溜まり」冒頭『水盤』5

その母はすでに亡くなっている母であり、私が生まれる前の若き母の姿でもある。母がいないか私がいないか、見られるものの不在か見るものの不在、そんなふたりの不可能な邂逅を「冬の日溜まり」という舞台が成り立たせる。まさに「冬の日溜まり」という舞台が詩を生みだす土壌だった。言葉でしかない舞台と作者は何によって結ばれるだろうか。ナルシシズムである。

谷内修三が山本まことを「文学的秀才」と読むとき、そのナルシシズムを読んでいる。そしてそのナルシシズムこそが、読者のナルシシズムを許すのである。

「嘘は愛なのです」。愛を壊すのは常に真実であることを考えれば、これは真である。しかし森永かず子は真を語ろうとしているわけではない。「真実こそが愛である」という命題への嫌悪が語られている。なぜ嫌悪があるのか。それを求めているからである。彼女は自分にナルシシズムを許さない。その不許可を私はどうすることもできない(愛することしかできない)し、私の手を離れ、その「孤独の暗さ」へと作品は回収されてゆくしかない。


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