FC2ブログ
--------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--:-- スポンサー広告 comment (-) trackback (-) top↑
2008-10-16

22時ちょうどに駅に着くと、22時ちょうどに駅前のマクドナルドが閉じようとしている。ここは、マクドナルドがある程度には都会だが、22時に店じまいをしてしまうほどには田舎である。そして一番遅くまで灯りが点っている私の部屋の窓はどの窓よりもクモの巣だらけだが、それはただ「クモの巣を払う」といったことをしないだけかもしれない。

その間(クモが巣を作りつづけていた、その間)、被言及記事がいくつもあったのでそれに触れておきたい。

奥付によるとこの本(「中学生のための社会科」引用者注)が刊行されたのは2005年3月1日となっている。吉本はこの前後にインタビューをそのまま書籍化した単行本を悪くいえば粗製濫造のように矢継ぎ早に出していた。「幸福論」とか「超20世紀論」とか「超戦争論」とか「人生とは何か」といった一連の本と、「食」や自らの「老い」についての本も同じスタイルで出していた。伊豆で溺れて以降肉体的な条件が旺盛な執筆欲を満たすことが出来なくなったので、こういうスタイルをとらざるを得ないのだろうと思っていた。何冊か読んだが、だからといって内容的に劣るという感じは受けなかった。しばらく吉本の著作を読まずにいたが、この時期の本をポツポツと読んでこの人はちっとも衰えていないなという感想を持った。

そうですね。全然衰えてないですね。「超20世紀論」だったかに吉本が、車椅子に乗っているひとが上半身だけ鍛えて筋肉隆々になっているのを不自然だと言って、パラリンピックなんかやめるべきだといった発言をしていたのを思い出します。そういう発言、できないですね。吉本の「自然観」はあたりまえすぎて、もはや誰にも届けないような地点を示しています。記事の引用を読み始めてすぐに吉本だとわかりました。この「中学生のための社会科」は読んでみます。

老いに関して、記憶の喪失ではなく、ほんとうに自分に必要な記憶を選別しているプロセスだみたいな書き方を私はしました。痴呆の方たちの養護施設に出向くことの多かったひとが言っていましたが、ひとことしかしゃべらない人が多いという話で、たったひとことで言いたいことが尽きる、それが究極の詩だと思ったりしました。老いは、言葉をそぎ落としてゆく詩作のプロセスと同じです。ただそのひとことが「ばかやろう」だったりするのは、すこし悲しすぎますが。

それで、miyataさんの奥さんの語った「おめでとう」の言葉にはうたれました。奥さんには、たぶん子どもの頃の忘れられない誕生日の記憶があるのだと思いました。その記憶だけは最初に選んでいるのです。それがどれほどの喜びだったか、想像もできません。

最初に「人を拒むようなこのブログにようこそ」と言われた意味が、当時はよくわからなかったのですが、
わかるようになってくると「何を話せばいいのかわからないですね」というあのときの私の言葉が
また別の意味で口に上りそうになります(苦笑
ああ、でもリアクションがなかなかできないのはほとんど私の能力の問題です。

開かれてあることの悲しみがあるように(わが町で22時を過ぎても開いているマクドナルドのように)、閉じてあることの充足があります(私の部屋の窓のように)。同じように言葉を並べているだけなのに、開かれているものがあり閉ざされているものがあり、閉じようとしているものがあり開こうとしているものがあります。

usauraraさんは、この記事に書かれている印象とともに浮かび上がりますが、私には、死別した兄を抱えて生きる姿を思い浮かべます。兄にふと触れるとき、どんな詩よりも詩に近い散文になります。それだけ凝縮され、触れることのできない核となって、ただ直接触れることができないもののまわりを言葉が、まるで衛星のようにゆっくりとめぐっているように見えます。意図的に詩として書かれたものを、それははるかに凌駕しています。

兄への思いそのものにはまったく自由はないのですが、表現は、詩とか散文とか絵といった形式から自由になり、ただ言葉に語らせているからでしょう。ただ言葉に語らせ、読む側はただ言葉が語ってくれるものを読む、そういう呼応が「詩的態度」ではないかと思っています。

ちょっと言っておきたいのは、私は詩について考え、しかも詩を書きますが、詩が私のものであったことはありません。詩に対してどこまでも他人であること、それもまた詩的態度かもしれませんね。

また以前より東京という環境であれば会う可能性が互いにあると思っていたMさんに会えなかったことが心残りではあったが、それはそれで未来の楽しみとしてとっておけば良いと思っている。

そのとき初めてnoon75氏と電話で話したのですが、コーラの話で盛り上がってしまいました。彼は、これからどうなろうと、一流の書き手から降りることはないでしょうし、彼と会うときは、マクドナルドでOKだということもわかりました。ぜひ、22時で閉まらないマクドナルドで。

表現する場、というものが、ほんとうは私たちの内部にある広場なのだという意見を保留しても、ネットもまた紙媒体の世界と同じで、表現力が歴然と照らし出されますね。そして読者数では劣っていても、不穏な表現力、というものが勝利するように見えます。痴呆の方たちが証明しているように、ただ頭で考えられたものなど最初に滅ぶでしょう。

南無さんは、一愚翁(現在PCが故障中で短歌の更新がとまっている)が会った時の印象を私に語ってくれましたが、「不穏な存在」です。ドストエフスキーではなく、ドストエフスキーの登場人物です。三島由紀夫が吉本隆明の『擬制の終焉』を読んで性的な興奮を覚えた、と書いていますが、書かれたものを読むかぎりですが、それと同じ存在を感じます。

時に、計り知れないものをもって生きる不幸な登場人物がいます。彼は、自分を創造し、生かそうとする作者の手を離れ、自分の死に場所へとまっすぐに進んでゆくことしかできません。いつかお会いしましょう。


Secret

TrackBackURL
→http://freezing.blog62.fc2.com/tb.php/532-4591052d
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。