地下鉄にて

学問というか、知識もファッションと同じ「見かけ」に属するものなので、いつまでもそれにかかずらう【係う・拘う】ことができる。意味のあることをしていると思いこむことができるのは、周りのみんなもそうしているという単純な理由からというよりも、<人間の内部の空無は外見によってだけ満たされる>という普遍の公式によっている。

新しい学問は、たとえばとんでもない場所にするピアスとか、タトゥーみたいなものだろうか。それははやるときもある。 地下鉄の中で若い女性たちの会話に出会った。「あんたケンソンって知ってる?」「言ってくれたらわかる」「それって知らんということじゃないの?」。彼女はケンソンの意味を説明することになった。「”わたしそれほどでもないです”みたいなやつ」「ああそれね、知っとった」

こんなせりふ【台詞・科白】があった。「意味分からん、ぜんぜん意味分からんかった。もし意味作っとったら、顔に出とったわ」。まるで少しでも意味が分かれば、「意味を作り出せた」と語っていて、その意味は「顔に出る」ものだと言っている。意味というか<知>は、身体と合一していて、身体は、ゆいいつの私の外見である。もしかするとそれが正しい「意味」という言葉の使われ方かもしれない。

会話から察するに、派手な女性に見えた(偏見である)が、遊び帰りではなく仕事帰りのようだった。しかし彼女らの見かけのまぶしさは、感性や悟性(つまり、意味のことだ)を表情のように身にまとい、それを剥き出しのファッションにしていることからやってくるのかもしれない。「意味」は、そういう方向にむかってみんなの外見に舞い降り、流れつづけながら定着し、つぎつぎに生まれては解体されているのだ。

21:00 | エッセイ | comments (12) | trackbacks (0) | page top↑

Comments

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最近新しいカメラを持って外をうろうろしています。今までは、コンパクトなポケットサイズのものを持ち歩いていましたが、新しいのは、ちょっとホールド感のある大きめのもの。大げさに首からぶらさげてカメラ小僧をアピールするのが居心地悪そうだと思っていたのと、被写体を強張らせるようで嫌だったのですが、いざ自分の首にぶらさげて外を歩くと、意外といい気分だった。カメラが外に発していた「意味」に高揚感を覚えた。癖になりそうだと思いました。
by: you tai | 2008/05/11 23:44 | URL [編集] | page top↑
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you taiさん、はじめまして。

写真を撮られるのですね。
この地下鉄の中の対話、「ケンソン」という言葉の意味を知っているか、という問いに、「ケンソン」という言葉は知らないけど、その意味の方は知っていた、そういう破壊的な回答がなされています。何が破壊的なのでしょうか。問いの主語が、中心が破壊されているのです。

「ケンソン」という言葉は消え去りました。
ちょうどそういうものとして音楽も絵画も、おそらく写真も鑑賞されているのです。その作品が湧き起こした「すでに知っていた」感動をもらって、もう作品は消え去っているというふうに。

重要なのは、主語なのです。意味を作り出したもの。たえず意味を作り出すもの。知らなかったもので、これからも知ることのないかもしれないもの。

この記事には「ブックマーク」をもらい、そこに青空さんが「意味がないことはこの世に無いと思っている。」と書かれました。しかし受け取れない意味はあり、それを無意味と名づけることもできるのです。そして世界は、主語として、そういう意味を発信し続けていて、音楽は絵画はおそらく写真は、世界と同じ広さをもって、聞き取る力のない私たちに絶えず何かを語りかけているのではないでしょうか。


そういえば私は上海から列車で、蘇州に行ったことがあります。
by: M>you taiさん | 2008/05/12 21:36 | URL [編集] | page top↑
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音楽や絵画や写真に「主語」を見出したとき、本当の感動があるということでしょうか。「主語」という言葉がこんなに詩的に、不思議なほど強く響いてきたのは初めてです。
by: you tai | 2008/05/12 23:55 | URL [編集] | page top↑
# 言及ありがとうございます
>しかし受け取れない意味はあり、それを無意味と名づけることもできるのです。

なるほど…受け取れない、受け取りたくない、受け取れない、というバリエーションがありそうですね。
「この世に意味のないことはない」
初めから意味を持たせてやっていることより、意味など感じてなくて、何か必要に迫られて、とかぼんやりやっていたり、それこそ流行っているから魅かれたり、そういう行動がほとんどだと思うのです。
意味は感じようとしなければないし、意味を感じればある、どんなに無意味に見えることでも何らかの意味を救い取れればいいなあと、そんな意味を持たせて書きました。
by: aozora21 | 2008/05/13 15:26 | URL [編集] | page top↑
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>音楽や絵画や写真に「主語」を見出したとき、本当の感動があるということでしょうか。

いえ、おそらく主語とは、音楽や絵画や写真が何かを語った時に、すでに見出されているものです。神であれ作者であれ作品であれ。
「本当の感動」というものを信じていません。
憂鬱だって恐怖だって陶酔だって感動だし、本当のものだとは思います。
それらは芸術でなくてもいいのです。
どこかの記事に書いたのですが、脳に対する直接的な電気的な刺激で。

では、芸術は終わったのでしょうか。
終わってはいない。「それでも残っているもの」です。
漠然としか言えませんが、
現在、とても大きな損傷を芸術は受けていますが、「それでも残っているもの」だと思っています。
これに関する記事をそのうち書きます。
by: M>you taiさん | 2008/05/14 20:46 | URL [編集] | page top↑
# 意味もないことを意味もなく
青空さん、コメントありがとう。

青空さんの「意味」は、「意義」みたいな感じですね。

意味など知らなくてもいいものが無限にあって、それは、誰かが知っていればいい。
かえって意味を抜くことによって人々は事実から解放され、ポジティブなものがそこから湧きあがってくる。
これは過剰な意味付けに対するポスト・モダン的抵抗でしょうか。

過剰な意味って何?

たとえば、意味は事実と無関係なときもある。
NATO空爆のあと「われわれは全員セルビア人だ」と語られました。すると、だれもが被害者だ、とか、傍観者は暴力による抑圧への加担者だという意味がそこにうまれる。
その時はそういう意味として受け取られた。
それはボスニア紛争、コソヴォ紛争固有の意味ではなかった。
それが二番煎じで、9.11のあとで「われわれは全員ニューヨーク市民だ」と繰り返されたとき、受け取られた意味は、もういいよそんな煽りは、といったものにすぎなかった。

意味は「その時」のものだとよく思う。
たとえ「その時」の問題だとしても、とにかく意味を作り出すこと、破壊すること、必要なのはそれだけだと思う。
by: M>aozora21さん | 2008/05/14 23:03 | URL [編集] | page top↑
# 意味の意味
>意味は「その時」のものだとよく思う。
たとえ「その時」の問題だとしても、とにかく意味を作り出すこと、破壊すること、必要なのはそれだけだと思う。


私は意味を持たせること(意義)ばかり考えてましたが、作り出す、そして破壊する必要性については考え及びませんでした。
意味づけを固定してしまうと別の意味を生み出し、事実から遠ざかっていく、そんな感じでしょうか。
これでエントリの
>「意味」は、そういう方向にむかってみんなの外見に舞い降り、流れつづけながら定着し、つぎつぎに生まれては解体されているのだ。

に繋がりました。
ありがとうございました。
by: aozora21 | 2008/05/15 00:28 | URL [編集] | page top↑
# 「意味の意味」の意味
返事を書く前に次の記事を書いてしまったために、返事、遅れてしまいました。
どんなできごと、どんなひとと出会っても、そこに齟齬が生まれてしまうので、そのときのちょっとした抵抗感をずっと持って、なぜそこに違和感が生まれたのか、その違和感の正体はなにか、といった問いにとらわれるのです。

その問いが「意味の生成」ということです。
そのとき、自分のせいにしたり相手のせいにしたり、社会が悪いことにすると、それはもう考えないですます方法としては最良だとは思いますが、意味の生成にはならない、そういう考え方をします。
それと、現在の社会科学とか政治思想的な解釈をしないこと。そんなルールを持っています。
基本的には、世界を変える、みたいな方向に考えます。

で、そういうものを表現しうる方法を求めています。ぼくにとって「詩」というのはそういうものを指します。

ついでにここに書いておくと、松井冬子が、自身の絵を嫌がる男性がいて「してやったり」と思う、ってところは、やはり痛々しいです。
でも上野千鶴子が言う「幸せになったあなたの作品を見てみたい」というのは嘘だと思います。
そんな作品は見たくない、いや、幸せというのは、もう作品を必要としない、そういうことじゃないでしょうか。
by: M>aozora21さん | 2008/05/17 23:59 | URL [編集] | page top↑
# 不幸と作品
>そんな作品は見たくない、いや、幸せというのは、もう作品を必要としない、そういうことじゃないでしょうか。


これは幸せになった松井さんが制作を必要としない、のではなく幸せになった松井さんの作品を上野さんが必要としない、ということでしょうか…

幸せだけが存在するということはないと思ってて、いつでも不幸もあって分量の違いとか感じ方の違いだと私は思ってて(うまく表現できないんですが)
作者が幸せにならないまま作品に其の思いを投影させたとしても、見る側は絶望や悲しみや不幸を感じ取るとは限らないのではないか…
目を背けたくなる絵というのが確かにあって、それは呪いに引き込もうとする絵です。絵だけでなく、そういう文章もあります。自分の不幸に耐え切れず他者を巻き添えに一蓮托生しようとしているかのような。
不気味さやおどろおどろしい表現から別の希望のような光を感じさせてくれる絵が好きです。
それはただ単に知識が不足していたり教養がないゆえの感じ方かもしれない(観賞眼がない)ですが。
語る必要がない立場であるから感じ方は自由でいられる、とも思います。
by: aozora21 | 2008/05/20 09:24 | URL [編集] | page top↑
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>これは幸せになった松井さんが制作を必要としない、のではなく幸せになった松井さんの作品を上野さんが必要としない、ということでしょうか…

松井さんが、です。あの技術で、内臓なんか飛び出してない美しい女性をそのまま描くだけなんですが、それはぜったいに不可能です。
絵は、自分自身の直接的な実在なのです。そうじゃない絵は多いけど。
そして作品は、悲劇なのです。

>幸せだけが存在するということはないと思ってて、いつでも不幸もあって分量の違いとか感じ方の違いだと私は思ってて(うまく表現できないんですが)

これは、「100%幸福な人間は1%しかいない」っていうことですよね。作品は、何らかの不幸なのです。

観る人、読む人に幸福感を与えるものは、残念ながら作品ではない、あるいは、失敗した作品だと思います。これを証明するのはむずかしいですが、たぶんそうだろうと思っています。
by: M>aozora21さん | 2008/05/20 22:20 | URL [編集] | page top↑
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すみません、しつこくてもうしわけないのですが

>観る人、読む人に幸福感を与えるものは、残念ながら作品ではない、あるいは、失敗した作品だと思います。これを証明するのはむずかしいですが、たぶんそうだろうと思っています。

私は松井さんの絵の感想を希望の光とか力強い生の肯定と書きましたが、それ=幸福というものでもないように思います。
いえ、そうおっしゃられたから知ったかぶりしようというわけではありませんが。
生きているのはそれだけで悲しい、などと書くのは性に合わないですが、単純に、生き物を食べてるので。

作品は悲劇である、いつか機会があったらお話してくださったら嬉しいです。
by: aozora21 | 2008/05/20 23:51 | URL [編集] | page top↑
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青空さん、こんにちは。

体調を崩していました、と、こんなところで日記などを書いても詮無きことですが。
幸福を差し出しているのは、ハリウッド映画とかですよ。
その幸福に対置されるのは人類の滅亡といったカタストロフィです。

松井さんは自己救済です。そういう意味では正統なのです。
ただし、自己救済が、どのくらい作品によって昇華しえているのか、といったことが問題なだけです。

作品の評価は、大野さんが言っているように、歴史的価値、現代的価値が結ばれた交点が作り出します。
個々の作品にとっては運なので、時代を越えるものを、現在に見抜くことは簡単ではありません。

悲劇、というのは、ニーチェなのです。つまりギリシャなのです。
世界文学全集というものがあります。
そのほとんどは悲劇です。
エンディングに救済があること、それが悲劇の形式でしたが、それはカフカが崩してしまいました。

ぼくも書いているのは悲劇の解読だけです。いつか、そうですね、
いつか「悲劇」について書いてみたいです。
by: M>aozora21さん | 2008/05/22 22:44 | URL [編集] | page top↑

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