2008-04-28

「行きたい方角とは違う方にすこしずつカーブしてゆく」道、だけが道である。決然とした選択によって出来上がるのは夢物語だけだった。過去にそんな夢を与えたくなるときは、未来がなくなったときで、多くの老境が、過去を夢とする作業に目覚めはじめる。つまり「SF」、未来の夢物語の背後には過去の夢物語が、「自伝」がはりついている。

ずるずると不可避的な流れに流されながら、そこで私自身と出会うこと、それが仕事を作り出す。

江戸川、荒川、中川、新中川といった大きな河や用水路をはじめ、いくつもの小さな川が流れる、東京・千葉・埼玉にまたがるこの低地帯を、西の武蔵野に対する「葛飾野」としてとらえて、いつかその精神史が書けたら、というのが私の願いなのだが、そのための第一歩が、自分とはなんの縁もなかった東京の西の郊外の町、下北沢ではじめたフィールドワークだ。

この仲俣暁生だけではなく、城戸朱里にも歴史や民俗学的な考究に、詩の根源に向かいたいと呟くシーンがある。彼らは書き続けながら、そこでほんとうに書きたいものに出会っている。ライフワークとの出会いが「仕事の発見」だった。その「仕事の発見」だけが人生の最大の出来事ではないだろうか。

どれだけブログを書き続けても、小説を書き続けても、いいものを書こうとする意志だけでは、そこに「仕事の発見」はない。それは流されていないからじゃないかと思う。流されていないというのは、流されまいとする闘いの傷痕がそこにはない、ということだ。じつは文章を読むとき、ぼくは、その傷痕を読んでいるだけである。

ずるずると流されながら抵抗し、抵抗しながらも当初思っていた道からずれてゆく、それを必然に変えること。それが書くことであり、これからもそんないいブログに出会いたいし、彼らがいつか、その延長線上に仕事を発見してくれたらと望んでいる。


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