私だけのウソを求めて
何かを語るときにイエスかノーどちらかの選択をせざるをえない、ことばにはそういう宿命があるとおもう。
50パーセントの確信しかない場合でも、書いてしまうと100パーセントの確信が語られてしまうことがあるし、わざとそう書く場合もある。ウソを語っているのか、いや、誇張しているのである。そして読み手の中には、ちゃんと誇張を差し引いて読むことができる人もいる。そういう読者はかなり貴重な読者だといえる。
ここで問題になっているのは、「理解」ではなく「納得」だと思う。言葉に対する姿勢ではなく、良好な人間関係とは何か、ということだ。世界は「理解できるが納得できない」もので満ち溢れている。そのギャップを埋めようとして、相手に問う「何故」があり、「理解できない(正確には、納得できない)」という声があがる。しかしたとえそのギャップが埋められて、何が得られるというのだろう。いやそんな身も蓋もないことが言いたいわけじゃない。理解と納得の間にあるギャップが、人を人に接近させ、遠ざける、そういうことだろう。
しょせん「本当に理解できないもの」と出会うことは人にはできない。どんな問いも、あらかじめ答えを持っている(『存在と時間』の序文を思い出す)。問いが成立するときに前提とされる理解の地平が、システムがあるのだと思う。間主観性ネットワーク、共同体無意識、「文法」……。でも「納得」は違う。それは「理解」の先にあるように見えて、その理解を否定しなければならない。納得は欲望であり、倫理であり宗教であり、思想的なものだった。
ネット上では、絵にかいたような、誇張された人間関係が簡単に結ばれる。現実では投げかけることのできないような罵詈雑言、悪意の発露が可能なら、逆もしかり。夢のような意気投合や共感、童話的な恋愛関係もある。それこそが匿名性の帰結だと言ってみたい。匿名であることが、人の欲望の真実を暴露してしまう。
しかし満たされない欲望のために、現実の人間関係が多くのウソの上で成立するように、欲望を満たすためにも、言葉だけの関係にウソが必要だった。理解は「正しさ」に呪縛されているが、納得の希求はそこから解放され、どこか自分に合ったウソを求めているだけのように見える。今日も私は、愛すべき他者を求めて、最適なウソをさがし続けている。







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