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2007-11-07
私という塊がその血となり肉となる。私という魂が糞になって岩と落葉の狭間に産み落とされ、長雨に、ただ打たれる。

なんという静けさ。

いつでも身体があった。そして自由は死と結ばれる。確かなことは、身体を出現させ、その身体を消し去るものとしての死に魅惑されていること、それこそが生が選ばれていることだった。私の消滅が、私に関係する世界の静寂となり秩序となり幸福となるのか。ぼくはそこに傲慢さを読み、限りない愛を読む。

すべてを幻に翻訳しながら、ぼくは現実を表現に接合する。かつてそうだったように、彼女の書くものについて考えている。彼女のエクリを見るぼくの「まなざし」が、これからも何かを付け加えることがあるかもしれない、が、ないかもしれない。現実と死のはざまで愛を語るもの、彼女はそんな語り部である。

眠ったり目覚めたり,映像のない,言葉だけの夢をたくさん見た。やがて空に雨雲が広がり,夕闇に雨が落ちてきた。手術室から帰ってきた母は,麻酔の所為で朦朧としていたけれど,声をかけると,痛いようと子どものように泣いた。そしてすぐにいびきをかいた。

いつでも身体の否定があった。静寂と死に包まれた孤独から彼女はやってきた。いつでも同じ場所からやってきて、しかしどこに登場しどこを徘徊しているのか、彼女に一定の空間があるのはわかっても、いつも違う場所を走るバスのように、その場所を特定することはできない。

物事にけっして触れずにただ見ること、それが永遠の距離を生み、「言葉だけの夢」と語るときにある、みんなの現実への強い拒絶が死の香りとなって、彼女のつづる文の隙間を漂う。「言葉だけの夢」の登場人物として実体を持たず、彼女は墓地からやってくる。ほとんどの死者がそうなように、彼女もまた生きている人々の愛や幸福をそっと望みながら、言葉の中への消滅を願っている。

弟が母に肝臓を提供した臓器移植の手術に付き添ったことがある。15時間の予定が(弟は12時間で出てきたものの)、母の方は20時間を超えた。「避けられないが、背負うこともできない」現実だった。ぼくが倒れてしまった。当時の記録にはこうある。何を食べても満腹感はないし、何も食べなくても空腹感もなくなってしまった。それがその日から3日以上つづいた。すべてを吐いてしまった。吐くたびにちょっとの間、楽になるので、その楽を求めて、何度も食べては吐いた。

臓器提供には、技術的な問題よりも倫理的な問題がおおきい。ほんとうに「善意」の「自由意志」で提供されるのかをコーディネータと呼ばれる人々が面談し、テープレコーダに録音しながら、何枚もの宣誓書に保証人を要求する。「自由意志」ではなく、強制的に臓器提供を強いられたひともいたのだろう。でも「自由意志」ってなんだ? 「善意」って、なんだ?

また当時の記録にはこう書かれている。「これでコーヒーでも買っておいで」と手術直前の母からお金をもらった。たとえ母が生き延びても、こんななにげない会話が、きっと人と人との別れの最後の言葉になるのだろう。


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