青は遠いあこがれ
青は遠い慈愛のまなざし
午後のおだやかな時間の中を
遠くから風がふいてくる。「風は青からふいてくる」部分
これは詩集ではなく、詩集の付録の小冊子「杉眞理子散文抄」からの抜粋である。これは詩になる前のメモ書きとして、詩以前の詩として書かれていて、そう読まれるべきものかもしれないが、「詩以前の詩」の読み方なんてどこかにあるものではない。
この詩のための詩的メモが、おどろくほど抒情的で、澄明で、まるで戦前の四季派を見ているような哀しみが流れていることに驚かされる。知的で、詩のひとつひとつの行を意味によって紡ぎだした、杉眞理子の詩にそういった印象を持っていたのは誤りだったかもしれない。とぎれとぎれに見えた詩の一行一行は、見分けられないほどゆっくとした流れを持ち、そのリズムは、大地そのものが生命であるときに刻む鼓動のようだったと今なら思える。
*
1990年代の初頭、そこには今とは違う風が吹いていて、それなのに季節に欠けた思い出のなかにあなたはいた。偶然と呼ぶことにどんな意味があるのかわからないが、ぼくはあなたと偶然にすれ違った。とある喫茶店の横長のテーブルの正面にあなたはいた。総勢何人いたか、いったい何の催しの打ち上げだったか、ぼくが何を注文したかも忘れた。違うテーブルでは柄谷行人の『日本近代文学の起源』について誰かが何かを語っていた。そのひとがぼくの名を呼ぶ。ぼくは無視をする。
いつでも事実は、たとえその日付を失った時も、孤島のように過去のある日付を占有している。ぼくを呼んだそのひととはついに語る日はなかった。それはあなたとのすれ違いを徴づける、同時にあったもうひとつのすれ違いだった。ぼくたちはそれ以前と以降には、ただ発表された作品に触れることだけで結ばれた。
それは
アナタでも
アタシでも
誰でもかまわない
いないヒトの存在を想う
ように
いるヒトの不在を想う「Vanish」 冒頭
寡黙な詩だった。その寡黙さが明かすのは、あなた自身から言葉までの距離があまりに近すぎるということだった。それはまるで声によって発話される言葉の遠さを、詩によって自分自身に奪回しようとしているようだった。言葉を失うときにあなたはあなたに還る、もしその通りだとするなら、詩は、言葉を失ってゆく過程の最後の輝きによって、あなた自身を語りかけていたのだと思った。
やがて1998年にはホームページを開設し、「インターネット詩」と呼ばれるジャンルをあなたは仮想するようになり、内向を否定した横書きの詩の世界に入っていった。饒舌になり、行間は狭まり、あなた自身からは遠い距離で詩が書かれるようになった。あなたとあなたの詩との新しい距離が、双方を生き返らせたのではないかと読むこともできた。かつて言葉が潰えるところにいたあなたになり代って、言葉が流れ出るところに新しいあなたがいた。あなたの吉原幸子、あなたの富岡多恵子、そしてあなたのあなたが、この3回忌に一冊の詩集となって届けられたことにぼくは泣いた。
僕らの空洞は
プラネタリウムの満天の星のように
消去されたもので満ちてくる「For ET by ET ***」部分
「ぼくは吉田(杉)さんのファンですよ」「私もあなたのファンよ」。すぐにあなたの隣にいたひとが「私もファンよ」と言いだし、すべては冗談となったが(冗談にしてもらったが)、そんな会話さえ、初めからどこにもなかったかもしれない。それが、ふたつのすれ違いが記された、とある喫茶店での、横長のテーブル越しの、一度きりのあなたとの邂逅だった。
花を見て月を見て星を見て
何を見たかしら
このとき この一瞬
永遠に続くとか
そんなことも思ったかしら
夢なら醒めないでとか
そんなことも思ったかしら「今朝はもう」 冒頭
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もうひとつのすれ違い『渓谷0年』
「ルブー・アルハーリー」と「中毒的日々」読みました。
端的に言うと、性同一性障害とうつ病のブログですが、表現されているのはあまりに明朗快活、健康そのものの女子高生的世界で、そのギャップに驚かされました。これって文体の魔術かもしれませんね。
>何で自分の彼女が、他の男と付きあっとんじゃぁぁぁあ!
>普通に考えてそれ、可笑しいよなぁ??
同性愛の対象が、異性愛者だったなんてことは、ありがちなのでしょうか、二重の裏切りなのでしょうか。ぼくにはわかりませんが、本当に可笑しいのは「普通に考えて」というところでした。だれもこんなこと普通に考えることできませんよ。
またお越し下さいね。

じっくり読みたいです、もっと一杯読んでみたいです。
Vanishですか、自分はこれが一番共感できました。