『「静かの海」石、その韻き』、
『神の子犬』、
『ことばのつえ、ことばのつえ』、
『大切なものを収める家』、
『ハウスドルフ空間』、
『藤井貞和詩集』、
『続・藤井貞和詩集』、
『ピューリファイ、ピューリファイ!』、
『ピューリファイ、ピューリファイ!』。
本棚にある何人もの藤井貞和だったが、なぜ『ピューリファイ、ピューリファイ!』が2冊あるのかというと、1990年刊、一冊は別のだれかの所有物だった。だからその2冊は違う藤井貞和だったが、そこに含まれる「風の音の遠野」について何かを語るとき、吉増剛造よりも藤井だろうねとか、「詩が声のように/生きられる場所は/どこにあるか。」とか、それらはひとりになった。かれらはひとつになった。
風の音の遠野藤井貞和「風の音の遠野
物語」と、
折口信夫(おりくちしのぶ)の長歌にある。それを思い出す。
かぜのおとの、
かぜのおとの、
と、繰り返してみると、
遠野、
きみの意中に、
風が吹き寄せてくる、その風は解体する、きみを。
無残に、すべもなく。
遠野市へ遠く来て立つ。
この心 来む、と思いし…… はるかになりたり
追いつめられている。
追いつめられている。
半里。
そこを埋める言葉がない。
言葉。
言葉によって意中を、
情報にしなければならないのだな、
機械。
だめだだめだだめだ立ちすくむ、
きみのひきずるわだちが夕日のかげみたい、まのびしちゃって。
河なかに、みなわあふるるまぼろしの、サムトの姿は、
会わず去りたり
背後でぼろぼろだ。
まともにゃ見られないぜ。
うん、会わずに帰る。
みんななぼろし。
ひどいのたうちのあとを、
広場にさらす。
……
ここからは全容を六角牛山が見せ、
暮れ残しているところどころの野へ、
流れる油。
つちぶちのまちのかげりを行くことの、ふとしも、
心ためらいにいる
ふとしも、
うん、何気なく、
「意中」と言ってみて、
きみはおそれる。
きみの「意中」はなすすべがない。
「意中」にはもう言葉がからっぽだ。
「意中」の人とは別れてきた。
ずたずたに引きちぎられた「意中」に書き入れようがない。
破片でしかないきみにとって、
ページはぜんぶオフサイド、ない物語。
おしらさま祭文いくつ、猿ヶ石川のながれに、なお、
聞こえくも
ここから半里、
魂を蹴り込むきみのサッカーが、
浅い雪の下で試合を待っている、なんて、
思ってもみなかったよ。
きみのからだ、部品という部品は、
次から次へ、その、
まっ白な粉みたいなのが降る日に、よりによって、
オフサイドをとられ、
どろどろの場外へ捨てられる。
悲しいかな。
ゆくりもなく「意中」と言える語のさわり……
河あるごとき流水の音……
退場。
命ずる退場。
もうきみは要らない、シャーシーも、
ボデーもね。
四本のわだちを残して、
行きたまえ、疲れた機械。
ホイッスルは油を含み、
雪面をよごす、きったならしく。
だれが言葉を失う、だれが悲しむ、だれが、
言葉によってきみのミスをいとおしむ。
……雪を踏む野暮れ、遠野ら……
この淡き降りのよろしさ。心いそぎに
野暮れをゆけば、
まれびとに会うみたい。
まれびとは、
ぱらぱらの木枯らしを雪もよいにして降ってくる。
それはきみだ。
ない「意中」の野をひと刷けに、
白くするもの、その、
白い草枯れをきみのわだちは酔って歩く。
酔って歩く。
わだちから火が。
まれびとはまれびとさびて別れゆく……
遠き心とならんとするも……
もうやめようよ、きみは直らない。
修理するまえの解体と、
部品の点検を、
だれがする。
だれがきみのことを愛する。
捨てられるきみには絵本がよく似あう。
情報はぜんぶ不良状態にあり、
垂直の視界に降りてくるラジオはもう情報によじのぼろうともしない。
世界のジープは墓場へ吹き寄せられて、
老残を思う。
ゆうぐれを、野の三千の眼の 送り……
その中心にきみの不在や……
流水にはたえまなくエンジンをかけられ、
もう永遠に折れている車軸をやさしく抱いて、
キスするバンパー。
こなごなのフロントガラスを集め、
きれぎれの声は約三千。
中央分離帯のうめきとは、きみのこと。
昨日の悲報のほうが感動的で、
きょう、物語に乗り上げる事故、
とか、逸れていった、
風の音とか。
風の音の遠野松崎町 過ぎて、
風のねいろを思う、しばらく
ぐちゃぐちゃにつぶれた神様に、
ぐちゃぐちゃの心を返したいよ。
言葉は外部で死ぬ。
きみのせいじゃないけど、
きみの取る責任はあまりに苛酷で、
耳が点滅しちまったよ、おい。
ついにシュートだ。
最初にして、
さいごのね、遠く、
逸れてゆくシュート。
火をあげて野ずえのまくれ、まぼろしをひるがえし来る手が、
と念えり
われわれはでんでら野へ向かった。
油火のなか。
何の修理工場か分らなかったし、
すぐに消える建物だったが、
きみのために、
魂のホイッスルが吹かれたのだとすぐに分かった。
どうするのか、
と 風はたずねたが、
たずねているようには、
聞こえなかった。
墓の空暮れて青なり。だんのはな、
ものげなきわが足を踏みつつ
野の果ての、
でんでら野というらしいのだけど、夜みたいに、
ともしつらねた油の火を、
送る、それが確実に、
確実に、
きみのさいごを、
明るくする、そんな一時になら、
語のさわり、
そう、語が「さわり」みたいにきみをつつむかもしれない。
意中において。
遠野をわたる風についても同様で、柳田國男、折口信夫といった民俗学的記述の上空をわたる風について、国文学者藤井貞和が記述したのは、アグリコさんが言われるように、ひとつの終わってゆくもの、いいえけっして終わらないもの、ただし終わっていなくても感じることがむずかしいもの、ただ語られることによって継承される、現在の遠野物語だったといえるかもしれません。
依然として遠野を、はるかな伝承の中の地としてとどめるために、「遠野が藤井貞和をして書かしめた」詩であるかと思います。
岩手は、石川啄木、宮澤賢治といった突出した詩人の県として知られています(ぼくだけ?)。そこで詩に触れない生活があるのは、文化的な後進性ではなく、まさにその生活そのもののなかに、すでに風土と化した詩人たちが生きているからかもしれませんね。

詩に格別な関心もなく、また詩集というものも思い出すかぎり遠い遠い昔にしか開いたことのない私にとって、この「風の音の遠野」との出会いは非常にハードなものとなりました。それはまるで習いたての外国語でいきなり古典文学に取り組むみたいな、なにも意味がわからない。こんなにも日本語の中に隔たりを感じてしまったのは久しぶりです。
でも厚く積もった雪を踏みしめ踏み締めて、せめてひとりでも通れる道を作ろうと自分なりに行った作業の間に間に、マボロシのように浮かんだ情景を描かせてください。恥ずかしながら、私が書けるものばこれだけになるかもしれません。
この詩は遠野や特定の対象をうたったものではなく、遠野と折口信夫、そして最後には一人称である自分との緻密なモザイク。(それともうひとり、「意中」の人、きみのミス、別れゆくまれびと、それらの言葉が、もうひとり状況に決定的に関わった存在を感じさせますが)それらすべての「われわれ」が風の音のように体を失くして分解し、からっぽの意中を胸に探りながら、事の挙句にあと半里の遠大なシュートを弧を描いて打ち放つ。その共時性と孤独な三者の「まれびと」同士の出会い。
でんでら野の葬式は二度と現れないサムトの居る遠野そのものであり、民話に触れ伝承に耳を傾けゆかりの地に足を伸ばし、けれど二度とまれびとに出会うことのない私たちのための場所なのかもしれません。
遠野という魅力的な響きを持つこの町が、けれどその「まち」が自分の望む人とはもう出会えなくなってしまった。この救いようのない夕暮れに、しかし私たちは自らまれびととなりながら最期の一瞬に望みを繋いで生きている。しかない。そんな哀しさをひんやりと感じてしまいます。
この詩は私にとってまれびとでした。