2009-11-24

時折、忘れ物を届けるために吹く風がある。そしてその風は女の姿をしていたりする。女が欠如の代理として登場するこの物語の終焉に私はいつ立ち会うのか。

すこし眠ったら過去ももどり
美しい破壊の陣地のような
沙漠の池のような
日本の秋に似た樹が立っている
仮の虚無が曝す砂地を掘り
何を植えようと思ったか
透明な朝 - 藤緯夫「SEED」No.20

夢を見ない、というのは一種の才能だし、どんな眠りのあとも、起きてしまうともどってくるのは現在なのに、と言いたくなる。でもここにはうっすらと夢の余韻をひきずって目覚める目覚めが語られている。まるで童話のワン・シーンが思い浮かぶ。そこはまだ夢の中なのだ。

藤緯夫氏のおもしろさは、硬い筆をもって、それをロマンティックな墨に浸すところだが、それを逆にたどると、どれほど抒情のインクを満たしてもペンは思った速度ではしらない、そういうパラドクスがここにある。そのきしみが、抒情性を増すように機能するとき、その詩は佳作となっている。

もし私に藤緯夫氏の言葉があったら、私は冷たい血液が流れるやはり冷たく美しい風景を描くだろう。つまりペンは別のインクに浸けるのだ。でもここに描かれるのは、温かいものが流れる冷たい風景だった。それは求める対象なのか拒否の対象なのか、あるいは求めて裏切られる対象なのか、だれにもわからない。

過去がもどってくる寝覚めは、満たされなかった睡眠の後で経験しがちだ。夢によって眠りからひきはがされたときだ。「夢によって起こされる」というのは、私が夢から現実に逃避したという意味である。そうして私は<真実>に追われ欠如に逃げ込む。欠如は女の姿をしており、忘れ物を届けるために吹く風のように私を出迎える。そこも夢の中なのだ。


2009-11-22

同じ数ページを何度も読んでいるのは、どこまで読んだか忘れたからというのもあるが、次を読む活力を得るためだ。内容を失ったのではなく活力を失ったのである。つまり、引き返すのはかならず忘れ物をしたときだといえる。「忘れ物をしたかのように引き返す」引き返しなどない。それはやはり忘れた何かを取り戻す引き返しだった。

思い出される過去と思い出されない過去の違いは、忘れ物の有無にあるような気がする。だから何かが、通り過ぎた出来事を覚えているものとは別のものが、忘れ物を覚えているのだ。

その忘れ物をけっして忘れない何かにフロイトが与えた名が「超自我」である。超自我はたったひとつの命令だけでできあがっている。「けっして忘れるな、失ったものを」

過去はどこにいくのか。人類の歴史の元へいく。人類の歴史はどこにあるのか。私たちのなかにある。その場所、人類の歴史が住む私たちの場所にフロイトが与えた名が「無意識」だった。

その昔何度も、その頃恋人だった今はもうこの世界の何処にも存在していない少女と一緒に夜を過ごした高台にある公園に行く。眼下に見下ろす街は灯りに煌めいている。昔は真っ暗だったその闇が鮮やかに煌めいているのを目にし愕然とする。少年の頃の私たちは高台から見下ろすその暗い闇をずっと海だと思っていたのだ。

忘れるなという声のもとでいかにして忘れ去るか。あるいは同時に、けっしてすべてを忘れるべきではなく、すべての道を引き返すための道として歩みゆくべきか。


2009-11-18

高島野十郎の「割れた皿」は画集の表紙だった。絵の破壊の代りに破壊されたなにかが絵の素材になったのではなく、完全な絵のために書きこまれるべき破壊があることをそれは告げている。排除されたものが中心にあって完成するもの。「排除されるものとして取り込むこと」、それはワタシの死のイメージであり、無の代用物だった。

死そのものではなく、死の周辺をぐるぐると回ること、それが死の代用物への欲望を表わしている。彼女になぜ魅了されるのか、それが理由である。やがて彼女そのものを求める欲望の充足は、たやすく死のイメージとしての<彼女の不在>を求める欲望に乖離するだろう。もしかすると彼女を得る以上に、彼女を失うことによってワタシは充たされてしまうのだ。「このようなわけで、人間の欲望とは常に欲望するための欲望であり、<他者>の欲望の対象となるべき欲望なのである」(ジジェク『厄介な主体』)

含まれているが除外されるもの。つまり内部において除外されているもの。それが割れた皿であり、彼女がみせる私たちの欲望の対象である「彼女自身」だった。

空っぽの容器を持った少女が
女の内部を駆け抜けてゆく
どこにでも行ける自由を持って
女の内部『白紙の街の歌』松本秀文

造りものでしかないのに、少女は女の素顔だった。少女の自由の見かけは、女の自由の非在を見せて、それゆえに女の自由への欲望という真を語っている。そして少女の持つ空っぽの容器は、無意味なもので満たされた重たい容器を抱える女のいだく「無への希求」にほかならない。無への希求は、やがて無の代用物への希求へと乖離する。でもこれは詩が終わったあとの話だ。

詩人は女の真実として少女を見ている。しかし女は少女を「自分ではないもの」ときっとみる。ワタシから排除されたワタシの中のワタシ。そしてワタシではないワタシを排除したために、あとに残されるのは「心臓を失くした女」となったワタシ自身だった。

一瞬を絞って生まれた葡萄酒を
心臓を失くした女が飲んでいる
傷だらけの荷馬車を背景にして
ささやかな恩寵を受け入れる女
時間のため息が風景に行き渡る
そうして道は続いてゆく『白紙の街の歌』松本秀文

空白とか白紙といったものが無の代理であり、傷は「死の代用」として求められている。愛しいひとではなく恋愛そのものに恋愛するロマン主義の傍系がここにある。中心が回避されているのではない。まさに<回避によって自分に含み入れようとする無>がここにある。


2009-11-13

移りゆくものをわざわざ否定しなくてもそれはそれ自身によって否定される。だからもしわざわざ否定しようとしているとしたら、私はただ、それをつねに手遅れの段階で引きとめようとしているからだろう。自分もまた移りゆくものだと私はけっして気づかない。

去るものは、いままさに去ろうとする姿で反復する。再-現前化は、そのときどんな私であろうとつねに私の目の前で起こる。「過ぎ去った」ことは過ぎ去ることができない。すでに過ぎ去ったものとしてここにとどまる。なぜなら最初の喪失が、すでに二度目の喪失だったからである。

恋人が付き合っていた彼もしくは彼女を振ったとき、捨てられた相手にとって、この破局を引き起こした「別の相手」の存在を知ってしまうのは、ひどく心が痛むものである。しかし、そんな状況はまだマシな方かもしれない。もしもフラれてしまった相手が、実はそこには他に誰もいなかったという事実、つまり恋人が自分を振ったのは、「新しい彼/彼女」が現れたからではなかった事を知ってしまうのだとしたら、一体どうなってしまうのだろう。この状況において、いまいましい「新しい彼/彼女」とは、恋人が元カレ/元カノを振ったという状況説明の原因として存在しているのであろうか。それとも、「新しい彼/彼女」とは単に、既にふたりの関係に走っていたひび割れをはっきりと目に見えるようにするための口実を与える材料なのであろうか。
スラヴォイ・ジジェク『厄介な主体』

既にふたりの関係に走っていたひび割れ、それが最初の喪失であり、「別れ(のための口実)」はそれを目に見えるものとして、ひび割れを現前化したものとしてやってくる。したがって即自態から向自態(むかしは対自といってたような気がする)への変化は、変化ではなく、ただ見えなかったものが見えるものとなって、同じものが反復することだった。しかも即自態は、向自態となったあとで発見される。悲しいかな、二度目が最初にやってくる。

つまり、かならず手遅れである世界の出来事に対して私たちはなにをなしうるかと問われているのだ。すでに過ぎ去ったものが過ぎ去らないかぎり、それを過ぎ去らせるかどうかという選択が反復のたびに開かれてしまう。すでに過ぎ去っているのに、それを選ばないという選択があるのだろうか。もちろんある。「新しい彼/彼女」が登場したとしても、あきらめないといった、悲しいかな、苦痛の選択が。

即自と向自の対立は<存在>と<当為>の対立に変わってしまう。別れた相手は、存在のレベルではそれ以前に別れてしまっているにもかかわらず、いまもなお別れつづける対象としてもどってくる。とっくに別れているものに向かって、やはり別れるべきなのかもしれない、などとこれからも私は思いつづける。

道を発見した時は、すでにその道を歩いてきたときだった。私にできるのは、けっして道を発見しないこと、それだけだ。


2009-11-09
つまり私は女にもてないただの朴念仁なのだ。そしてその単純な事実にそれ以上の意味を持たせないという事が、私にとって窓を開けるという事なのだろう。もうさまざまな形で「つけ」は払われたのだ。

この青藍山研鑽通信の太田氏が私の詩の「沙漠」を「砂漠」という文字で引用したとき、じつは、この詩を書いている時からあった「沙漠」という文字は私の文字ではないな、という違和感を思い出した(もちろん違和感だけが創造の根源なのだが)。彼の引用は「あるべき詩」を差し出していて、詩というか作品が読者によって完成するものであることを改めて教えられた。

私が詩の方を「砂漠」に変更したのはただそういう理由で、それ以上の意味を持たせないことによって、私も窓を開けておこうと思う。


暫定龍吟録の「ヴェイユと現代」を読んで、吉本隆明の『甦えるヴェイユ』を思い出した。苦痛の思想家ヴェイユの位置は、吉本にとって宮沢賢治と同じ場所にあった。革命の思想から神学への移行を「転向」とは見ない。革命思想を内攻させたあげく最後の壁に出会った、それが神だった、と吉本は語っている。感動的すぎるかもしれないが、あとがきを引用する。

ヴェイユは生きた同時代のいちばん硬度のおおきい壁にいつも挑みかかり、ごまかしや回避を忌みきらったため、壁にそって必然の曲率でねじまげられた。だがこの曲率は比類のない正確な歴史曲線をかたちづくっている。
吉本隆明『甦えるヴェイユ』あとがき

個人的な資質による耐えがたい精神の縮小といったものが読み取られている。あまりに内攻すると思考は「掘り下げる」ことしかできなくなる。掘り下げると細くなることしかできない。その無限縮小の先にある焦点が、ヴェイユの「神」であった。残念ながらここでは、開かれた窓は、やせ細ってゆく無限につづく反解放の道の先にしかない。


前記事「十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない」に「十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない」というタイトルで「僕等は人生における幾つかの事柄において祈ることしかできない」からトラックバックがきた。なんというタイトルの長さだ。そもそも「十一月の白さは、その白さに尋ねなければならない」は書きかけている詩のタイトルだった。それが出来上がる前に、その出来上がりを拒むように、別の物語が進行してしまった。

それでも私はその砂漠を愛しているし、砂漠に立つ。砂漠に降る雪を夢見ながら、砂の写真を撮り、雪について百年書き続けようと思う。遠く同じ月を見ている人を想いながら。

いったいなんのために砂漠になど立つのか(なぜ世界は砂漠なのか)、なんのために書くのかという自分自身の問いに彼女は答えつづける。つまり「遠く同じ月を見ている人」とは誰なのかという問いだ。それを具体的なだれかと見るか、まだ見ぬ恋人といった架空と見るかに違いはない。それが開かれた窓であればいい。

もし「遠く同じ月を見ている人を想いながら 」という一文がなければ、はるかに意味を抜くことができて、それゆえはるかに読む側に自由な意味を許しただろう。しかしこの余計な一文はどうしても書かれなければならなかった。それは署名みたいなもので、書き手がどこかで自分の表現を手放したくないと思っているからだ。まるで表現はわたしを見捨ててゆくかのようだ。