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2013-03-27

太陽は夜に存在できないゆいいつの星であると書かれていたはずツイッターの誰かのプロフィールを追って走ったがすぐに息が切れて見失った。私は前にむかって追ったが、それはすぐ背後に立っていたかもしれない。

大きな板ガラスを運ぶ軽トラックをときどき見かける。ガラスが割れる季節になったのである。その人も、けっきょく最後まで一枚のガラス越しに愛したにすぎないし、そのガラスが砕かれるような季節はついに私たちには訪れなかった。

波を消すために海を離れよう。

なぜ自分の内部の空を自由に飛び回っている鳥は、自分の外では地べたを這いずりまわっているのですかと問われた気がした。遠い昔だったら、なぜ自分が確信している観念の重さは、外から見ればただの軽石なのでしょうか、そういう問いだった。幻想は、私自身を生贄にすることによって軽さも重さも手に入れる。しかし外部には生贄がないのです。

ほんとうに私たちの願望を支えている基盤は世界から退いていて見えない。世界から退いてそれはほとんど「大地」と呼ばれるような何かに変貌している。もはや私たちはコンクリートの舗道や草原や海岸に立つことはできても、いや海岸からは立ち去ったばかりだ、大地に立つことはできない。根拠から隔てられ、それが見えないことによって、それに決定的に支えられてしまっている。「人間にそれが見えないのは、人間がその地平を媒介にしてあらゆるものを見ているからだ」(ジジェク)。それはスクリーン、一枚の、けっして砕くことのできない完全に透明なガラスであり、太陽が自分に夜を与えることができない自分自身の光なのである。


2013-01-08

味のしない食事をしたとき、それがまずい食事のせいなのか私の味覚が不調なせいなのか決定できないので、私の味覚の不調のせいにしている。もしもそれがほんとうは食事が理由だった時はどうするのか。どうもしない。

人を理解していない場合はその人の言葉だけが記憶に残り、人を理解している場合はその人との会話が記憶に残る、という話をときどきツイッターでした。私には熱愛した高校時代の恋人がいたが、じつは、言葉はいくつか覚えていてもその人との会話は覚えていない。自分では私の人生を変えた決定的な失恋だったと思い込んでいるが、なにひとつ彼女を理解していなかったのだろう。

そしてその人は私の言葉ではなく私との会話を記憶していたのではないかと思うことがある。その人は20年以上前に他界したためそれを確かめるすべはないし、確かめられたとしてもなにかが変わるわけでもない。今、その人を思い描いても私たちには会話がない。会話なく出会って私たちは思い出の中でなにをするのか。なにもしない。

ただこれだけは言える。熱愛は理解していない側にあった、というより、理解は熱愛のなかにはないのである。

「僕は人生で一度だけ、目の中に他人の涙が落ちてきたことがあるんだった。」ということばを読みました。

以前、クルマを運転して室見川にかかる橋を通っていたとき、上空を飛ぶ渡り鳥の一群とすれ違ったことがある。その瞬間、クルマのフロントガラスは鳥たちの糞で真っ白になり前が見えなくなったことがある。今までの人生で一度だけあったことを思い出してみた。

あけましておめでとうございます。


2012-10-13

仮に、書かないことが書くこと以上に意味をもつ場合があっても、書かれない文字が語ることを聞くのはむずかしい。読みたいことを読んでしまうからだ。「読んではならない、見るのだ」。言葉は文字となって再生するだろう。輝くのではない、燃えるのだ。

どこを見渡しても奴隷しかいないが、そのとき私は彼ら奴隷たちの奴隷である。ただ、彼らが流されてゆく流れよりも早く流れていけるだろうか、課題はそこにある。海に出ない流れは全部、橋を架けることができない越えられない壁である。

『吉本隆明の言葉と「望みなきとき」のわたしたち』という書物で瀬尾育生が紹介して知ったが、『アヴェロンの野生児』という本に、狼に育てられた少年に言語を習得させようとして手をつくす話がある。あるとき、少年がひどくのどが渇いていてコップに入った水を与える。少年はその水を飲み干すと「ウォーター」と言ったが、結局、そのひとこといがい言葉を話すことはなかったというエピソードだ。言葉は道具のようにして使われる技術的な何かではないとそのエピソードは語っているが、言葉は外部にあるわたしたちの無意識そのものではないだろうか。言葉は、必要としなくてもそこにあるというだけでは足りない。言葉が必要としないかぎり、そこにわたしたちは存在できない。しかし、無意識が無意味であることを忘れてはならないだろう。忘れてもいいだろう。

裁くよりもはやく女は処刑する。女は「質問なんてないのよ、ここには答えがあるだけなの」とつぶやく。多くのドラマは終わる以前を生きているが、出来事はドラマが終わったあとに始まる。アメリカの『犯罪予知ユニット』は、邦題がひどいがシナリオがとてもいい。


2012-08-12

廊下を道だと思って歩いている。
近親相姦はだれもが近親相姦への欲望を持っているから禁止されたのではないというよく耳にする言葉を唐突に思い出す。禁止の対象は欲望の対象とはまるで無関係なのである。
これは謝罪というのはそもそも罪とは無関係だという話でもある。
私たちは欲望から行った悪をなにか別のものにすり替えることによって償うしかない。
「すべては欲望を罠にかける。それは倒錯者の頭の中ではじまる。」
こういう話がどうでもいい話かどうか私にはわからないが、どうでもいい話として読んでくれることを私はつねに望んでいるだろう。
ついでにクイズ番組は教育番組ではないという話もしたかったが。

椅子を買ったが座っていない。
何のための椅子ですかという抗議を受けている。

ここ数ヶ月郵便物の封を切っていない。
私はいま郵便物が届けられるそれ以上の至福を求めてはいない。
何を食べてもすぐに吐いていしまう猫と暮らしている。
廊下を道だと思って歩いている。


2012-04-02

誘惑的なあまりに誘惑的な書き方があるということは、きっと誘惑される人がいるのだろうし、誘惑に抵抗する人がそこに佇んでいるのだろう。誘われてもそこに場所はないのだ。場所がないということがきっと私たちを誘惑し、その誘惑に抵抗させる。

通路をまっすぐ歩くしかない高級百貨店の反対側には、人をよけながら斜めに歩く安売りスーパーがあって、その先には暗い夜ばかりが広がってときに強い風が吹いたが、何も起こらなかった。強い風が吹いているのに何も起こらないことを信じることができるだろうか。通路は斜めに歩くほうがいいと私は思う。

花は見ない。桜の花の話をしてくれる知人がいて私は幸福なのだろうが、私は、ラジオを聴かないように花を見ない。ラジオからは音楽が流れてくるからだし、花からは……花からはいったい何が流れてくるだろうか。

4月1日のテレビドラマ『SPEC』の話をちょっとだけすると、瀬文のために感覚を失った当麻の左手を瀬文が握るシーンがある。もう瀬文の手のぬくもりを感じることができないその手を、瀬文はあたたかいと告げる。与えることが失うことになるのではなく、ここでは、失うことが与えることになる。ラカンの愛の定義〈持たないものを与えること〉を思い出す。持たないものを与えることによってのみ、彼女は、それを持っていることを知るのだ。


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